1月の3連休に狭山市立博物館に行きました。平成24年11月3日から平成25年1月14日にかけて、「ジョンソン基地とハイドパーク展」という企画展示が行われていました。狭山市立博物館の見学の模様はこちらで紹介しています。
この展示で配布されたパンフレットも稲荷山公園の誕生の経緯やジョンソン基地とハイドパークの歴史、そして返還などについて、当時のことを知る方のインタビューも含めてしっかりとしたものでした。パンフレットはこちらになります。
ジョンソン基地とハイドパーク展(PDF)
この展示に付随して、近くにある米軍住宅が開放されているという説明を受けたので、博物館の見学が終わったあとに、米軍住宅に足をのばしてみました。
山をおりていくような形で、歩いて10分ほどでした。少し判りにくいところにありますので、受付で貰った地図を頼りに現地に向かいました。
坂道をおりていくと、特徴的な建物が見えてきました。周辺は普通の住宅街なので狭山市がこのようなイベントを開催していないと、なかなか外観すらゆっくりと見れません。今回は外観だけではなく、室内も見学させてもらえるということなので、とても貴重な機会です。
日本に返還される前の稲荷山公園は米国の将校向けの住宅が建ち並んでいて、ハイドパークと呼ばれていました。そして、そのハイドパークの下になるこの米軍住宅が建っている一帯は、もっとも階級が低い層の兵隊が暮らしていたとパンフレットで紹介されていました。
昭和31年に狭山市住宅協会が米軍住宅を50戸建設してアメリカ村と呼ばれていました。ジョンソン基地に赴任した軍人やその家族向けに発行された冊子に「基地内の住宅は通常22ヶ月から24ヶ月待ち、基地の外のハウスはアメリカのものに比べると狭いが家賃は月40ドルから117ドルと手頃という説明があったそうです。
2件の米軍ハウスが開放されており、まずは手前の建物から見学しました。
手前の建物の中には家具なども配置されていて、当時の暮らしの雰囲気が再現されていました。
窓からは太陽の光がたくさん入ってきて、とても室内が明るくなっていました。
お風呂とトイレは同じ部屋になっていました。ただ、お風呂の浴槽はすでに撤去されてしまっていました。
こちらは洗面台です。
こちらはダイニングのスペースです。
もう一つの建物にも入ってみました。こちらは家具などは設置されていません。
こちらの浴室には浴槽も残っていました。
作り付けの家具がありました。
基地が返還されたあとは、これらの米軍ハウスも一般の人に開放されるようになり、1960年代から1970年代にかけては細野晴臣さん、小坂忠さんなどのミュージシャンも住み独自の音楽コミュニティが形成されていました。大瀧詠一さんはここから少し離れた東京都西多摩郡瑞穂町にある米軍ハウスに住んでいましたので、米軍ハウスには独特の魅力があったのでしょう。
終戦から30年間にわたって狭山の地にあった進駐軍が接収した基地、そしてそこに従事する人向けに作られた米軍ハウスがこのように今でも残されているのは興味深いことだと思います。
後日、ジョンソンタウンにも行く機会がありました。ジョンソンタウンについてはこちらで紹介しています。
米軍が駐留していた当時の立川基地のディスコに行った帰り道で西立川駅を荒井由実さんが歌にした雨のステイションも当時をしのばせるものの一つです。
立川基地に関しては、荒井由実さんはランドリーゲートのことも歌にしています。
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