井の頭公園の歩みと児童を救うために殉職した松本訓導殉難の碑

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 井の頭公園の西側にある御殿山から玉川上水に歩いていったところに小さく丘のように盛り上がっているところが二つあって、そのうち一つの丘の上には人の背丈よりも大きい碑(松本訓導殉難の碑)が建っています。子どもの頃、この辺に遊びに来た際はこの二つの盛り上がった部分を見るたびに「古墳なのかな?」と思っていました。

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松本訓導殉難

 こちらが松本訓導殉難の碑です。

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 この碑の傍らには東京都による案内板も建っています。

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 東京都の案内板には下記のように書かれています。

大正八年(1919)十一月二十日東京府麹町区(現在千代田区)永田町小学校全校児童は、井の頭公園に秋の遠足を行った。当時の井の頭公園は都心から離れた郊外で来園する人も少なかった。従ってこの遠足は文字通りの遠出で、児童達は大変期待していたものである。
到着後、喜びのあまり遊びに夢中になっていた一児童が足をすべらせて玉川上水の急流に落ちた。急を聞いた松本虎雄訓導は、わが身の危険もかえりみず上水に飛び込み児童を救おうとしたが、急流にのまれて殉職した。時に三十三才であった。
命を捧げて児童を救おうとした尊い行為は、人々に深い感銘を与えた。松本訓導の児童愛に燃えるこの勇敢な行為は、教師のかがみといえるものである。これを後世に顕彰するために、殉難のあったこの地に記念碑が建てられたのである。

 昭和14年に山梨県の甲府から三鷹市下連雀に移り住んだ作家の太宰治は、昭和15年に中編小説「乞食学生」の中で、「万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。」という一節があります。

井の頭恩賜公園開設までの歴史

御料地

1919年というと、今から100年近く前ということになります。明治時代はこの三鷹や武蔵野市のあたりは今のような住宅地ではなく豊かな自然が広がっていました。井の頭公園のある場所は皇室の御料地となっていました。

都民の水源として利用されていた神田上水の水源となる井の頭池を守るために明治維新後に東京府が買収、明治22年(1889年)からは帝室御料林として宮内省(現在の宮内庁)の所有となっていました。

吉祥寺駅の開設

中央線の前身にあたる甲武鉄道は1889年に新宿と立川の間を開業しました。甲武鉄道は本当は乗客が多く見込める青梅街道沿いや甲州街道沿いに汽車を通したかったと言われていますが、住民の反対運動にあい、仕方なくほとんど何もなかったその中央部分、特に中野から立川までは真っ直ぐに敷設したと言われています。

開業時は中間の駅は中野駅、境駅、国分寺駅の3駅で吉祥寺駅は存在せず、1899年に開設されました。境駅が先に開業していたのは、玉川上水沿いに植えられていた桜が名所となっていてたくさんの観光客が来ていたためです。

井之頭学校から井之頭自然文化園

1905年(明治38年)に今の井の頭自然文化園のあるところに渋沢栄一氏が東京市養育院感化部井之頭学校を開設し、両親を亡くした子どもを保護教育していました。敷地内には運動場のほか畑や作業場もあり職業訓練が行われていました。

その後、井之頭学校の庭づくりを依頼された東京市の職員である井下清氏が井の頭の池と森を東京市民の公園とすることを渋沢栄一氏に進言し大正2年10月の東京市の本会議に「郊外公園設置二関スル件」を提出し議決されました。

井之頭学校は昭和14年(1939年)に東村山市の萩山に移転します。この移転後の跡地に動物園を作る計画が進められました。当初は上野動物園に匹敵するほどの規模で構想されたようですが戦時下で規模が縮小されて、井之頭自然文化園として昭和17年(1942年)に開園しました。昭和24年(1949年)に日本にやってきた象のはな子は昭和29年にうえのどうぶつえんから井の頭自然文化園に移されて、とても人気になりました。

井の頭恩賜公園の開園

この議決を受けて御殿山や井の頭池周辺が大正2(1913)年東京市に下賜され、大正6(1917)年に日本初の郊外公園として一般公開されています。開園した当時の公園の面積は28.5ha、うち4.5haは井之頭池です。(現在の開園面積は約43haまで広がっています)

当時、井の頭恩賜公園は都内の学校の遠足に来る場所として人気が出たそうです。

大正8年(1919年)の松本訓導の事故は井の頭公園が開設されてから2年後に発生したことになります。大正10年(1920年)には井の頭池の東端付近、ひょうたん橋があるところの水域に天然の水泳場が開設されました。

1923年には関東大震災が発生します。この震災により東京郊外の安全性が見直されて吉祥寺周辺が宅地化されていきます。吉祥寺通りや万助橋の西側一帯の土地は大正13年(1924年)に南井之頭田園住宅として竣工し売り出されました。現在でもこの下連雀1丁目のエリアは当時の広い区画がそのまま残っているところが多いです。

井の頭公園の桜

玉川上水

今の玉川上水は、あまり水が流れていませんので、ここで溺れることはあまり想像できないのですが、この時期は相当たくさんの水が流れていたのだそうです。

今も羽村の取水堰からは相当量の水が取り込まれていますので、このほとんどがここまで流れてきていたのだとすると、相当な流れだったのでしょう。

太宰治もここよりも三鷹駅側のところで身を投げて、ここよりも下流で見つかっています。これが1948年のことです。

1965年に新宿の淀橋浄水場が廃止されるまでは、多くの水を送り続けていたのでしょう。

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