鑓水から国立方面に都道20号線(柚木街道)をクルマで走っていると、「絹の道資料館」という看板があります。どんな資料館があるのか以前から気になっていたのですが、今回は時間に余裕がありましたので、寄ってみることにしました。
少し細い道を走っていく形になります。
絹の道資料館の駐車場
建物の裏には数台のクルマを停めることができる駐車場があります。駐車場に入ることが出来る道は細く、案内も小さいので注意してクルマを走らせる必要があります。
こちらが駐車場です。
駐車場は午後5時までとなっているようです。
資料館へ
絹の道資料館は生糸商人、八木下要右衛門(やぎしたようえもん)の屋敷跡に建てられました。この八木下要右衛門は鑓水の生糸取引により財を築いた人の中の一人です。見事な石垣のある屋敷を築いたことで石垣大尽とも呼ばれていました。こちらが正門側の石垣です。本当に立派です。
確かに敷地の周りには立派な石垣があります。この敷地内に建てられていた書院は異人館とも呼ばれ八王子を訪れた外国人をもてなすところだったそうです。
こちらが書院(異人館)のあった場所です。
こちらで働いていた人の寝泊まりしていた家がこちらにあったようです。
駐車場側にある入口から中に入りました。
入口から入ると、絹の道を散策する人のための休憩スペースがあります。
展示室へは靴を脱いでスリッパに履き替えてあがるような形になります。大きな部屋の壁にそって色々な展示があります。絹の道と生糸商人の関係や製糸、養蚕に関する飼料が展示されています。
江戸時代の八王子周辺は多摩郡や甲州・武州等の各地で生産された生糸の集積地でした。この生糸を江戸や多摩郡の各地域へ出荷をしていました。たとえば、青梅市では織物が昔は盛んだったということですが、こちらで集積された生糸の一部を使っていたのでしょう。(追記:青梅織物工業協同組合の広い敷地にある歴史ある木造建築の建物でシネマネコという映画館が開館し、先日、訪問しました。こちらで紹介しています。⇒青梅に50年ぶりの映画館(シネマネコ)開館と周辺散策 | 関東周辺の日帰り旅行 (painfo.net))
1859年に横浜港が開港すると外国への輸出品の中心になったのは生糸でした。したがって、八王子で集積された生糸が横浜へと運ばれるようになります。この八王子から横浜港へたくさんの生糸を運んだ道が浜街道と呼ばれるようになりました。
特に八王子の中でもこの鑓水地域の商人が仲買として活躍して鑓水商人の名前で知られるようになります。各地から生糸を買い集めて蔵に蓄えておき、高値で販売できる頃合いを見計らって売ることで財を築きました。
絹の道は横浜が開港して鉄道が発達した明治の中期まで輸出用の生糸が運ばれたルートの一つだそうです。御殿橋から絹の道碑の前までが市の史跡として指定されているそうです。
こちらは昔の鑓水のジオラマです。
昔の鑓水の栄えていた様子と賑わいを感じることができる施設でした。
ここから大塚山公園までは徒歩約20分、ここが当時の絹の道の雰囲気をよく残している未舗装部分の道で歴史の道百選に選ばれています。大塚山には道了堂の跡地があります。大塚山公園からJR片倉駅までは徒歩約40分です。
南津電気鉄道
Wikipediaによれば、絹の道資料館の前の道を北西に200メートルほど進んだところに御大典記念鑓水停車場と書かれた石の道標があるそうです。これは結局は実現しなかった南津電気鉄道の駅を作る計画地が鑓水にあったためのようです。大栗川の改修工事の際に記念碑が移築されした。
この鉄道は現在の聖蹟桜ヶ丘駅付近から鑓水、相原駅を経由して横浜市緑区の相模川付近まで計画されていました。さらに、ゆくゆくは富士五湖付近まで延伸する話もあったようなので驚きます。
この鉄道は南多摩の開発に加え相模川の良質な砂利や周辺の木炭を東京に輸送する目的がありました。鑓水に本社が設置されました。しかし、昭和大恐慌が発生し絹糸相場の暴落に養蚕の不振があり、昭和5年に会社が倒産しました。北野街道沿いの民家の裏山には整備された地盤が残っているようです。
もしも南津電気鉄道ができていたら、京王相模原線は開通していなかっただろうと言われていますし、また、鑓水付近の開発状況も随分違っていたのかもしれません。
こちらが絹の道資料館の公式サイトです。
【2021/06/12追記】
近所のランチスポット
この周辺のランチスポットとしては、キャナリィ・ロウというお店がおすすめです。パスタやピザを扱っているお店なのですが、前菜バイキングが付いてきて色々なものをお腹いっぱい食べることができます。
こちらで紹介しています。
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