群馬県富岡市にある富岡製糸場に行ってきました。ここは明治5年に明治政府が日本の近代化のために最初に設置した官営模範機械製糸場です。当時は正解最大規模を誇り日本の主要輸出品であった生糸の質と量の向上に大きく貢献しました。
昭和62年の操業停止後も建物群などは保存されて今に引き継がれています。
質の良い生糸増産
当時の日本では生糸が最大の輸出品だったのですが、鎖国をやめて外国と貿易を本格的にはじめた結果、生糸の絶対量が足らなくなってしまい、質の悪い生糸が大量に作られて日本の生糸の評判が海外で落ちてしまう事態になりました。
そこで、明治政府では資金を集めるためにも質の良い生糸を大量に増産するために近代化された工場を建設することにしました。その際に、生糸の品質改善、生産向上、技術指導者の育成で見本を示すために最新式の製糸器械を完備した模範工場として作られたのがこの富岡製糸場です。
JAFで割引入館
最初に受付で入場料を払います。ここにもJAFのマークが貼ってあったので、JAFの会員証を提示してみると、入場料が割引になりました。いろいろな施設で割引が効くのでJAFの会員になっていてととも良かったと思います。JAFの会員になるには年間4000円の年会費が必要ですが、すぐにもとが取れてしまいそうです。日本自動車連盟(JAF)の公式サイトはこちら(日本自動車連盟(JAF))です。
ガイドツアー
受付に着いたのがちょうど午前11時頃だったのですが、ちょうどガイドさんの案内が始まっていましたので、最初はそのガイドさんの案内を聞いて、この富岡製糸場のあらましを理解しました。
この富岡という場所に何故、近代化された製糸場が出来たのでしょう。以下の理由によります。
- 富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料の繭が確保できる。
- 工場建設に必要な広い土地が用意できる。
- 製糸に必要な水が既存 の用水を使って確保できる。
- 燃料の石炭が近くの高崎・吉井で採れる。
- 外国人指導の工場建設に地元の人たちの同意が得られた。
繰糸所
まず繰糸所ですが、こちらは長さ約140.4メートル、幅12.3メートル、高さ12.1メートルの大きさを誇っていて、まさに完成当時は世界最大規模であったことを裏付けています。繭から糸を取り生糸にする作業を行っていました。
操糸器は創業当初は300釜が置かれて300名の工女が一度に作業できる世界最大級の操糸所しでた。
操糸場の中に入ってみると、ズラッと機械が並んでいて、とても壮観でした。この機械、それなりに新しいものに見えます。少なくとも明治当時のものとは思えないので、どこかで設備の更新が行われているのでしょう。(調べてみると、昭和41年以降に設置されたニッサン製自動操糸器が保存されています)
ビニールのカバーがかけられていて、機械に触ることが出来ないようになっています。
創業時は電灯が無かったので、自然光を取り入れるために多くの窓があります。
この操糸場は明治5年10月4日に操業が開始され全国から300人あまりの職員が集めらました。外国人の指導者が指導にあたったのは明治9年まででそれ以降は日本人だけで操業が続けられました。
また、明治26年には三井家に払い下げられて、明治35年には原合名会社に譲渡されるという歴史をたどっています。そして、昭和14年には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社に合併されて昭和62年まで操業されていました。
繭倉庫
操糸場を挟んでコの字型の両側には東・西繭倉庫があります。(東置繭所、西置繭所)
東置賜郡の二階は繭倉庫として使われていました。一階の一部を展示室として公開しています。曜日により座操りやフランス綿糸機(復元機)の実演をしています。
東置繭所、西置繭所、操糸所はコの字形に配置されていて、その周りに生活関連施設が造られています。
繭倉庫に囲まれる形で煙突があります。高さは40メートルです。創業当初から高い煙突を設けていたのは、生糸の汚染や周囲の環境への配慮のためと言われています。・現在残っている煙突は昭和14年に建て替えられた物です。
さすがに世界遺産の暫定リストに掲載されるところまで来ただけの施設だと思います。規模の大きさとともに日本の近代化の足取りを知る上で非常に勉強になるところでした。
【2014/04/26追記】
世界文化遺産登録
2014年4月26日に文化庁が「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産登録を、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が勧告したと発表しました。これを受けて、6月15日から25日にカタールで行われる世界遺産委員会で正式に世界遺産への渡鹿が決まる見通しになりました。もしも富岡製糸場が登録されれば国内で18件目の世界遺産となります。
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