入口横の路傍の石が目印の三鷹市山本有三記念館で休憩

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井の頭公園から三鷹駅まで、玉川上水沿いの風の散歩道を歩いてみました。今回は久しぶりに、山本有三記念館に寄ってみました。この玉川上水の南側、下連雀1丁目、2丁目のエリアは南井之頭田園住宅として分譲された場所になります。

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東京近郊の住宅地開発

1919年(大正8年)に吉祥寺駅ができました。こちらのエリアは徒歩10分強で着くので、吉祥寺駅にも比較的近いです。特に1923年に発生した関東大震災により東京郊外への住宅移転が盛んになったことがWikipediaで紹介されていました。

そんな環境の中で、南井之頭田園住宅は1924年(大正13年)に竣工しました。もともとは、万助橋の名前の由来にもなっている地元の名士「渡邊万助」の渡邊家が所有していた雑木林の土地でした。

実業家が建築

現在でも当時の区画がそのままで残っているところが多いです。山本有三が住む前は商社役員や大学教員を務めた実業家がこの家を建てて住んでいました。その後実業界を退いたときに競売にかけられたそうです。

昭和11年から山本有三氏が居住

そんなこちらは作家 山本有三が昭和11年から昭和21年まで家族と一緒に住んでいた家です。この地で代表作の「路傍の石」や戯曲「米百俵」を執筆しました。

また、山本有三自身の蔵書を利用して「ミタカ少国民文庫」を開設していました。しかし戦後の進駐軍の接収にあってしまい、やむなく山本有三は転居しています。

その後、埼玉県朝霞市の「キャンプ・ドレイク」に勤める米軍高官の住宅に供用されていました。朝霞の基地まではここからかなり遠いですが通っていたのでしょうか。

三鷹の家を出た山本は志賀直哉に紹介された渋谷区代々木の住宅に間借りした後、大田区新井宿へ転居しています。

資料によると、月の賃料は都の小学校教員の初任給が2000円の時代に496円というかなり安い金額だったのだそうです。

接収そのものは、26年12月に解除されましたが、壁にはペンキが塗られ家具も傷ついていたことから、山本有三はもうこの家には住む気になれなかったとされています。また、当時は参議院議員で国会に行く必要もあったので、少し三鷹では交通の便が良くなかったという理由もあるのかもしれません。

1953年から有三青少年文庫に

その後、1953年に東京都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」として昭和60年に三鷹市に移管されるまで使われていました。

実はこの有三青少年文庫として公開されていたときに何回かこちらの施設を利用したことがあります。子どもの頃の記憶なのでかなり曖昧ですが、庭側にある中央部分の部屋で本を読んでいたように記憶しています。

当時、本の後ろに挟まれていた記名表に名前を書いていたので、もしかすると当時の本や記名表がどこかに残っていたら私の名前もあるかもしれません。

1996年からは三鷹市山本有三記念館に

そして、1985年に三鷹市に移管されて1996年から「三鷹市山本有三記念館」として公開されるようになりました。現在は山本有三の生涯と作品を紹介する施設として公開し、展覧会や朗読会などの事業が行われています。

こちらが路傍の石です。かなりでかいです。

もうまもなく閉館時間だったのですが、入口から入ってみました。

有三文庫の思い出

現在は有三文庫の思い出という企画展示が行われています。

こちらが建物を北側(玉川上水側)から撮影した写真です。

有三記念公園

建物の南側は有三記念公園として無料で開放されています。

こちらが有三記念公園です。

こちらが南側から見た建物です。ちょうど1階中央部分の煉瓦の色が少し違います。昔はあの煉瓦が無くて、庭側から出入りができていたように思います。

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