手宮鉄道施設が重要文化財に指定されています。指定されているものは下記の通りです。
・機関車庫 1号、3号
・転車台
・貯水槽
・危険品庫
・擁壁
こちらの写真で見えているのが転車台と機関車庫3号になります。
機関車庫3号
機関車庫3号は1885年12月に竣工しました。レンガ造1階建で、レンガの積み方はフランス積みと呼ばれている工法になります。
レールバス
機関車庫3号の中にはキハ03が大事にしまわれています。キハ03は旧形式ではキハ10200型と呼ばれていて20両が製造されたとWikipediaで紹介されていました。二重窓の北海道用酷寒地仕様となっています。20台の全車が最初から廃車まで北海道内で使用されていました。
なお、キハ03の元となったキハ01については、お客さんが少ないローカル線で収支改善をするために開発されました。10メートル程度の車体にバス用のディーゼルエンジンを搭載した二輪車です。
レールバスは1日数本しか走らないような超閑散線と呼ばれるローカル線区の収支改善と運行本数の増発が使命です。輸送力を度外視して徹底的に低コストで製造できるように工夫されています。車輪もバスと同様に二軸しかありません。西ドイツで量産が始まっていたシーネンオムニバスがお手本になっています。
超閑散線区とは言ってもピーク時は200名程度になる乗客を定員わずか60名程度のレールバスで対応できるのか、キハ17が登場した時期とも重なり、レールバスの開発には反対する意見も多かったそうです。
昭和29年8月にレールバス試作車の4両が完成した、千葉県の木原線、現在のいすみ鉄道にレールバスは最初に投入されました。1日9往復が22往復にまで増発されたこともあり、沿線住民にも歓迎されます。超閑散線区を多く持つ旭川の鉄道管理局はレールバスに強い関心を示しました。
昭和29年から昭和31年にかけて49両が製造され、北海道から九州までの各線区に配備され各地で好評を博しました。
ところがレールバスは志半ばにして国鉄線上から姿を消すことになります。ときが経つにつれて、二軸車独特の突き上げるような振動の乗り心地の悪さ、車輪の削りしろを設けていなかったことにより劣化の激しさ、騒音の酷さ、混雑時に乗客を捌けないといった欠点が露呈しました。
1960年台は日本の経済発展に拍車がかかり、都市部への通勤、通学客の増加に伴いレールバスでは対応できないという皮肉も重なり昭和43年までに全車が廃車、国鉄線上から姿を消しました。各線区ではキハ20などのディーゼル車に置き換わりました。
レールバスで運転できるような区間であれば、本物のバスで運転すれば良いという意見もあって後継車が開発されることもありませんでした。
機関車庫の中に入ってみると、キハ03の裏側に回り込むこともできました。
こちらがキハ03の車内です。コンパクトな車内です。
こちらがキハ03の運転席です。
運転席から車内を見渡しました。
転車台
機関車庫の中では線路の下が凹みになっていて、上の車両を下からメンテナンスすることができるようになっています。
こちらは機関車庫3号そのものの解説です。現存する日本最古の機関車庫です。設計した人は北海道庁旧本庁舎を設計した方です。
大勝号
機関車庫三号の中には大勝号も大事にしまわれています。
大勝号は北海道炭礦鉄道が1895年に、義経号や「しづか号」を手本にして外国人の指導を受けずに自社の手宮工場で製造しました。国産第二号の蒸気機関車で、現存する最古の国産機関車です。もともとは手宮近辺で使われていたようですが、鉄道の国有化を受けて1909年に鉄道院の規定で7150形になりました。1918年には北海道炭礦汽船に払い下げられ1938年には夕張鉄道継立駅構内の機関庫に留置されていたとWikipediaで紹介されていました。その後は1954年に国鉄苗穂工場で復元されて札幌市内の北海道大学植物園の一角に静態保存されました。1962年に小樽市手宮に開設された北海道鉄道記念館に移されて1964年に準鉄道記念物に指定、2010年に鉄道記念物に昇格しています。
ラッセル車
機関車庫の裏側には二台のラッセル車が展示されていました。こちらはキ1567号です。
こちらはキ270型です。
ロータリー式除雪車
奥にはロータリー式の除雪車も展示されていました。
公式サイトはこちらです。
☆小樽市 : 小樽市総合博物館
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