足尾銅山から日光へ向かったときに、「いろは坂」の看板が見えたので、日光市街の方向ではなく中禅寺湖の方へ曲がってみました。やがて、いろは坂が始まります。
この「いろは坂」ですが、確か中学生くらいのときにバスで通った記憶がありますが、全く当時のことを思い出すことが出来ません。実際にクルマで走ってみると、カーブにさしかかるたびに、「第一カーブ」、「い」などの表示があって、各カーブの単位に「いろはにほへと・・・」の文字が割り当てられていっていることがよく判りました。
また、2車線が整備されていたのも意外でした。のぼりは第二いろは坂、そして下り方向が第一いろは坂として、全く別に敷設されているようです。この第二いろは坂と第一いろは坂の全部で48のカーブをいろはの48音に例えているのが「いろは坂」の由来です。ちなみに第二いろは坂が20、第一いろは坂が28のカーブがあります。
そのまま「いろは坂」を登っていくと、明智平という展望台がありましたので、こちらでクルマを停めました。そしてドライブインの建物へと向かってみます。
明智平パノラマレストハウスでランチ
中に簡単な食堂がありましたので、こちらでちょっと遅めのお昼ご飯を食べることにしました。観光地の割には値段が良心的でした。
こちらは牛丼です。あまり期待していなかったのですが、食べてみると、味付けもしっかりとしていて、肉も味わい深く、とても美味しい牛丼でした。
こちらは、ラーメンです。
そしてこちらは、ゆばラーメンです。
日光ケーブルカー跡地
この明智平というところには日光ケーブルカー(東武日光鋼索鉄道線)が麓から来ていたようです。ホームの跡地が残っていました。
この日光ケーブルカーは1932年(昭和7年)に馬返 – 明智平間1.2kmで開業しました。翌年には、300mに留まっていましたが架空索道(明智平ロープウェイ)を明智平 – 展望台間で開業しました。
第二次世界大戦の終戦後に観光ブームとなり、日光駅・東武日光駅から馬返までの軌道線、馬返から明智平までの鋼索線、明智平からの架空索道線が連携して旅客輸送のメインルートになります。しかし、その後は自動車時代が到来して、軌道線や鋼索線を使う旅客が減って、1968年(昭和43年)に日光軌道線が廃止されてしまい路線バスに代替します。さらに、路線バスで明智平や中禅寺湖まで直通で行けることから馬返で路線バスを降りて鋼索線を使う必要もなくなり、日光鋼索鉄道線は1970年(昭和45年)に廃線となりました。
しかし、秋の紅葉シーズンには、いろは坂は大変な渋滞が発生して、自動車で中禅寺湖まで行くことが困難な状況になっています。さらに、外国からの観光客の多くも日光観光をするようになったので、自動車に頼るのも困難な状況になっていると思います。さらに、環境保護の観点でも、今一度、軌道線や鋼索線が復活すれば良いのではないかとも思うこともあります。
コメント
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